吐く息の白い中で布団にくるまって眠る。お気に入りの琵琶湖スポットから朝陽を浴びるべく、その近くに前日入りして車中泊をした。朝6時のアラームで目を開ける。予報通り。晴れている。固まった背骨を逆に曲げるように伸ばし、靴下を履いて外へ出た。

昨年は心痛むことが少なくなかった。少しづつ顔を見せる太陽を拝みながら、そう思った。そのような自分へ、関わってくれたあの人やこの人へ、手を合わせる。真っ暗闇に光を灯すようにお祈りするといいと千明が教えてくれた。黒の中にオレンジが、じんわり滲むと、ほっぺたの力が抜けていい感じになる。そういうルーティーンを日々行なっている。

1月4日から仕事始め。なので、今回はそのことについて話したいと思います。

京都にいると、1年限定と銘打って飛び込んだんだよなあ、という気持ちになる。そろそろ出なきゃだよなあ、という気持ち。一つ任され、さらに一つ任され、少しずつ伸ばしてきてしまっている。でも、大切なのは期間じゃない。卒業するという流れを掴むことだと思う。『成長』では遅すぎる。きっと『飛躍』する必要がある。

甘えたことを言っているつもりはない。別に辞めたいわけじゃない。自分の中にある漠然とした不甲斐なさを、放って置いているような輩がエルシャンに所属しているのはどうか、という点で解せないのだ。会社のためか、自分のためか、という話でもない。会社のためにも自分のためにも、知らない誰かのためにもなるような方向を、午年の射手座が求めている。

昨年の春頃、半月は会社に行き、半月は自分の活動をしている時期があった。表向きは人生と仕事の両立と言っていたけれど、今思えば単に怖かっただけだった。エルシャンというか、会社というか、そういう集合意識をまるでジョーズのように感じていた。ガブッとムシャムシャ飲み込まれるんじゃないか、と、怖れていた。だから、交わらないよう切り分けた。

それを数ヶ月、実際にやってみると気づきがあった。気づきというより、ふと思っただけかもしれないけれど、浮かんだワードとしては「自分が飲み込んでもいいんじゃね…?」である。俺が俺のまま、勝手気ままに、サラリーマンであるということ。受け入れるという意味でも、ジョーズが人間を食べるという意味でも、飲み込む。つまり、エルシャンで自分の活動をやっちゃおう、ということだ。OSHIGOTOの本質が、自分の喜びと会社の喜びを一致させることにシフトした。

そんな時分に、運よく、というか、とてもありがたいことに、2つの大きなOSHIGOTOを任された。一つはエルシャンのデジタル的なシステムを全とっかえすること。もう一つは、撮影スタジオごと全国を移動し現地からライブ配信で商品をお届けするTVトラック事業を立ち上げることだ。書いている今も頭が若干sparkする。こんまりさんが脳内を掃除してくれたらspark joyできそう…

この2つを年内にクリアする。とはいえ明確な形は見えない。見えるのは、エルシャンの皆様に深々と頭を下げて会社を出るイメージだけである。これから鮮明に追い求めようと思う。毎朝このイメージを浮かばせるタイムを取ろう。そう、今朝のように。

明日死ぬかもしれない